短編

□妻が高校生になりまして 3
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「え、あ、その……」
「気が違えてると思うなよ、本当のことなんだからな」
 まだ未成年の彼女には刺激が強すぎたか、名前は顔を真っ赤に染め上げ、挙動不審に手を上げたり下げたり顔にあてたりした。
「……そ、それって、と、友沢くんと、私は、その、結婚してるってことですか?」
 自分で言ったくせに、彼女は「きゃっ」と乙女らしい声を上げて顔を隠した。
「そうだ」
「友沢くんみたいなみんなの憧れの人と、私が……そ、そんなっ」
「あのなあ」
 俺は心底呆れた。彼女はその清潔な香りと、清楚な容姿と清らかな性格で、一体どれだけ男の心を奪ったのか。どれだけというのは、何人というより、どこまで、というべきだ。
 彼女は底なし沼だ。普段は目立たない彼女だが、その純朴さゆえに彼女のやることなすこと全てに目を奪われてしまう。
 とくにだな、デートに行ったあとに「あ、あのね!」と恥ずかしげに呼び止められたと思えば「その……まだいっしょにいたいの、ダメかな」と眉を下げて頼まれた。その時の彼女の可愛らしさにあてられ、並々ならず心がさざめいた……こともあった。
 とにかく彼女は俺からすれば、可愛いなんて俗的な言葉で片付かないほど尊い女であって、その魅力に目を奪われてしまえば最後だ。名字しか見えなくなってしまう。
 この清き底なし沼に落ちてしまったのは俺と猪狩さん。俺が名字に話しかければ、猪狩さんが俺をにらみ、逆もまた然りだった。懐かしい。
 思い出話もそこそこにしよう。とにかく、彼女は一度入ろうものなら二度と抜けることのできない恐ろしいほどの魅力のもち主なのだ。
 しかし、残念なことに目の前の高校生はその事実に気づいていない。今もなお、一人できゃっきゃと恥ずかしがっている。
「お前のいう憧れとは、周りが勝手に騒いでいることだろ」
 名字はぽかんと口を開けた。
「お、お前って私のこと……?」
 しまった、彼女の中の自分は同じ野球部でしかない。これは失礼な呼び方だった。
「すまない、忘れてくれ」
「いいえ!」
 しかし、俺の心配をよそに彼女は嬉しそうな、恥ずかしそうな、そんな顔をしていた。
「恥ずかしいけど、大人の友沢くんにそう呼ばれてるんですね……。お嫁さんって感じ……」
 これには困った。乙女しい顔に、俺自身がやられてしまった。素直に可愛いと思えた。
「お嫁さんってなあ」
 その響きが無邪気で清らかで、俺は頭を抱えた。
「高校生じゃないんだぞ……」
「高校生です!」
「お前はそうだったな……」またもや頭を抱えた。
 彼女は若かった。今の名前は、感情の起伏があまりなくのんびりとした性格だが、この娘は先ほどから忙しなく笑ったり驚いたり照れたりしている。……そんな彼女を好きになった自分自身もさぞかし若かったのだろうが。
「あの!」名前は突然真剣な表情になった。
「どうしたんだ?」
「あの、えっと」もじもじと言い淀んでいる。
「大丈夫だ。別に……怒らない」
「いえ! そういうわけではなく……」
「じゃあ、なんだ?」
「大人の友沢くんは……大人の私のことを今でも好きですか?」
 言い淀んだわりに、ずいぶん簡素な質問だと思った。当然だろう。おそらく、彼女が考えている以上に……いや、俺自身が考えている以上に俺は彼女を愛してやまないだろう。野球と名前、これさえあれば俺は生きていける気すらしている。
「もちろんだ」
「……飽きたり、していませんか?」
「していないな」
「友沢くんみたいな人が、なんの取り柄もないような私を……?」
「名前」
「えっ、あ、名前……」
「俺はこの名前を数えきれないほど呼んでいる。お前は自分で気付いていないかもしれないが、それくらいに魅力的なんだよ」
 特に、俺からすればその魅力は底知れない。今もなお、縮こまって頬を染める彼女が愛おしくて仕方がない。
 それを面と向かって伝えられるのは、過去の妻だからか。
「友沢さん……」彼女はなにやら意を決したように俺を見た。
「あの、私……今、恋しているんです」
「それは、まさか……」
「はい、高校生の友沢くんに。練習もバイトもあるのにストイックで目が離せなくて、そのくせ私のことまで気遣ってくれて……本当にすごい人だと思います」
 少女の口からこぼれた言葉はむず痒いものだった。日頃、意中の女が自分をどう思っているかなど聞く機会はない。ましてや、高校生の時、すなわち彼女の気持ちを知らずに、俺自身も同じように恋をしていた時のことだ。
 恋は盲目という言葉がある。名前の仕草を見ていれば、俺に首ったけで俺しか見えていないことは明らかだった。
 なおも彼女は指をすり合わせて続けた。
「でも、好きだなんて伝えられません。だって、友沢くんに私は釣り合わないんですから……。なにも取り柄のない私なんて……。そう思っていました。でも……こんな素敵な未来が待っているなら、少しだけ……勇気を出してみようと思います」
「……俺は、お前の優しさに惚れたんだと思う。だがな、付き合っていくうちに言い表せないお前のよさにますますはまっていった。高校生の俺も同じように、お前のよさを知っていると思うぞ」
 名前は少しだけ涙ぐみ、「ありがとうございます」とあの眉を下げた笑顔を浮かべた。高校生の俺に伝えてやりたい。自分の好きな表情で、意中の女が俺を想っているということを。



 後日、起きるとそこにはいつもの寝巻きを着た今の名前がいた。
 彼女曰く、ふと思い立って加藤先生の元へ出かけたことは覚えているが、研究所の戸を開けてからの記憶がなく、久しぶりに起きた気がするとのことだ。俺はこの摩訶不思議な現象を話すのは気が引けて、疲れてたんじゃないかとはぐらかした。
 昨日、少女が言っていた。「少しだけ……勇気を出してみようと思います」勇気か……。そういえば、プロ野球選手になってから、彼女と過ごす時間は格段に減っていた。
 加藤先生から預かっていた彼女の指輪を取り出す。勇気か。こいつを持ってもう一度プロポーズをするのも、悪くないかもしれない。

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